ようこそ  御挨拶
管理人のYANチョと申します。

このブログは私が運営する鉄道サイト 「YAN鐵夢想本線」
に登場する鉄道の駅を基盤にして,その周辺の神社仏閣や
史跡,名所などを画像を交えて御紹介している場所です。

とは言え特に専門知識も無く管理人が,その地域に合った
史跡や神社仏閣などを,普通にお伝えしているだけなので
大した内容ではありません(笑)。

自分が住んでいる町の事って,意外と知らない事が多いので
このブログを通じて,自分自身も色々と勉強できたら
良いなと思っています。何分,素人が書く内容ですので
間違いなどがあれば教えて頂けると幸いです。

また各町の雰囲気や探訪記いった内容は 「別ブログ」 で
専門に扱っていますので,リンク先をクリックして頂けると
御覧頂けます。そちらの方も宜しくお願い致します。




テーマ: 写真

 

八幡太神社  大阪府下
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祭神 : 応神天皇

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箕面市新稲町にある神社で西小路地区の氏神になります。
創建などは不明ですが,かなり昔から在った神社の様ですね。
明治40年に国の決まりで,1度は近くの阿比太神社に統合されて
いましたが地元住民の要望により,昭和23年にめでたく
この地へ帰って来た神社なんだそうです。

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全国の八幡神(応神天皇)を祀る神社の1つですが
特別に有名な神社ではなく,大昔から地元の方々に信仰され,
愛され続けて来た神様だというのが,境内を見れば分かります。

何でも元々は 「八幡大神社」 という名前だったのですが
大の字の墨が下に落ちて ”太” になってしまい
今の名前の神社になったんだとか・・・(笑)。
神社の名前にも,こんなほのぼのとした逸話があるんですね。


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テーマ: 史跡巡り

 

正丸稲荷神社  大阪府下
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箕面市牧落の小高い場所に在る神社です。
外観からすると何処にでもある普通の稲荷社ですね。

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しかしこの神社の凄い所は,社の真下が古墳になっていて
石室部分がそのまま神殿になっている所でしょうか。
詳細は未発掘なので分からないそうですが,小規模の円形の墳丘と
横穴式石室の形状から,6〜7世紀に作られたものなんだそうで。

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この付近は大昔から小さな古墳が,アチコチに点在していたそうで
当時この地で勢力を持っていた,秦という豪族のモノでは
ないかと推測されています。今ではその殆どの古墳が削られ
消滅していて,箕面市に残る古墳は貴重なモノなんだとか。

この正丸神社も江戸時代から在った記録が確認されていて
古墳を神として崇め,大切に扱って来た証になっています。


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待兼山とその付近  大阪府下
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大阪府豊中市・池田市・箕面市にまたがる丘陵地帯を
待兼山と呼んでいます。古くは歌枕ともなった由緒ある
山でして枕草子にもこの山の名前が登場しています。
また大昔は高師小僧という褐鉄鉱の塊(現在は天然記念物)
が産出され,待兼山石と呼ばれていました。

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大正15年に旧制浪速高等学校が設立され,現在も同じ場所に
大阪大学豊中キャンパスがある事は意外と有名なんだそうです。
また昭和39年に校内の工事現場から出土した,新生代第四紀の
ワニ・マチカネワニの化石でも有名でして,敷地内には総合学術
博物館(入場無料)が建っています。

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さて待兼山の麓には,西国街道と能勢街道が走っていて
2つの街道が交わる辺りに石の橋が架かっていたんだそうです。
この橋が現在の石橋市の地名由来になったと言われていて
近くの小学校には,ここの石橋が大切に保管されています。

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江戸時代はこの結節点の周辺を ”瀬川宿” と呼んでいて
大層な賑わいを見せていたそうです。古くから石橋の地は
人々の交流が絶えない町だったという訳です。


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二子塚(稲荷山)古墳  大阪府下
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池田市石橋にある二子山古墳は,6世紀前半に作られたモノと
されていて,猪名川流域最後の前方後円墳だと言われています。
極普通の住宅街の中に紛れて,丘の様に存在する古墳は
まるで小さな公園か,宅地造成中の土地の様に見えます。

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全長45m,標高43mの古墳の頂上には昔から小さな
稲荷神社の社がありまして,地元の人には稲荷山古墳と呼ばれ
知られているそうです。神様の名前である朝日大明神とは
「日の出前に拝むと御利益がある」 という意味から由来されている
神様で具体的な人物や固有名詞のある御稲荷様ではない様です。

当初は円形古墳だと思ってたそうですが,後の調査によって
前方後円墳だという線が濃厚になり,今に至ってるんだとか。
古墳の名前である二子塚とは,墳丘上の南北に2つの横穴式石室が
ある為で,第二次世界大戦の時には隣組の防空壕になっていたそうです。

普通は古墳には入れない事が多いのですが,ここの古墳は
特に規制も無く,頂上の神様にも御参りする事ができました。


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大浜公園 その2  大阪府堺市
その1 からの続きです。

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こちらが1855年(安政2年)にあったとされる砲台場跡です。
江戸時代末期は日本は鎖国中だったので,外国からやって来る
無許可の船などの脅威から,堺を守る為に設置されたんだそうで。
ここの砲台場跡は1866年(慶応2年)により,強固なものへと
改修された場所だそうで,新たに石垣と外堀を設けました。

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これは私らには余り馴染みのない 「ラジオ塔」 と呼ばれるものです。
昭和初期頃はラジオは超高級品で,一般には普及してませんでした。
そこで公園などに大きなラジオを設置して,宣伝をした訳です。
街灯テレビならぬ街灯ラジオってやつですね。ここのラジオ塔は
レプリカだそうですが,ちゃんと本物も保存してあるそうです。

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最後は日本一低い一等三角点がある 「蘇鉄山」 です。
では早速,登ってみましょう。

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と言っても10mも満たない ”丘” ですからすぐです(笑)。
蘇鉄山は砲台場から公園へと整備された時に,展望目的で築山された
人口の山です。7m弱の標高に一等三角点があって,ここが日本一
低い一等三角点になるんだそうです。これでも当時は大阪城天守閣や
生駒・六甲を始めとする山々が臨めたんだそうですよ。
一応登山認定証なるものも頂けますので,登頂されてはいかがでしょう?
(認定証は登山口である 神明神社 で貰えます)

因みに大阪超低山にはここのほか,天保山・茶臼山・聖天山・御勝山
などがあります。何処もとりあえず有名な場所ですね。

今は静かな市民の憩いの場となった大浜公園ですが
広大な敷地内にある色んな史跡を眺めていると,当時の方々の
賑わった光景が思い浮かぶ様です。楽しい場所だったんでしょうね。



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大浜公園 その1  大阪府堺市
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大浜公園は明治12年に,ここにあった陸軍の砲台跡を整備して
作られた公園で,明治29年には遊園地。明治36年には
当時,開催されていた第5回内国勧業博覧会の第二会場となり
同じ頃に水族館や猿島も開設され,堺を代表する行楽地になりました。
また海水を利用した温泉施設も大阪3大温泉として名を馳せていた
そうで,観光客・行楽客で常に賑わっていたそうです。

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大正元年には阪堺が宿院からこの公園を結ぶ 大浜支線 を開業。
また南海電鉄の龍神駅(現在は廃止)でも,この公園へのアクセスを
行っていて,益々一大リゾート地として繁栄を極めていました。

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しかし台風や火災の影響,また堺臨海工業地帯へ変貌するにあたって
公園前の海岸が埋め立てられたりして,集客数が激減してしまい
昭和36年に残念ながら,全ての施設が閉鎖されてしまいました。
現在では当時の施設の面影は全くありませんが,代わりに猿飼育舎や
公園相撲場を始めとする,各種スポーツ施設などがあって
地域の方を中心とした公園として,憩いの場となっています。

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当時の写真を見ると公園というよりは,まさにレジャーランドと
いった雰囲気で,その規模がいかに大きかったかが窺えます。
また現在の猿飼育舎は,当時の猿島から引き継いだ施設になりますが
来園者が余りに餌をたくさん与える為,猿の肥満化が問題になり
今の様な檻が付けられた獣舎に変わってしまったそうです。


                     ( その2 へ続く)

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フェニックス通り  大阪府堺市
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堺の中心地を走る幹線道路で,大浜北交差点と一条通り交差点を
結ぶ全長1.8Kmの大通りの事でして,国道26号・310号
及び府道2号の3つの道路を合わせた総称をこう呼びます。

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中央分離帯に植えられたフェニックスの木が,道の名の由来ですが
元々この道路は 宿院頓宮 に突き当たる細い道路だったものを
戦後の都市開発の一環で,大通りに作り変えたんだそうです。
堺大空襲からの復興を願い ”不死鳥” の意味を持つ
フェニックスの苗木を植えたのが始まりなんだそうで・・・。
今では日本の道100選にも選ばれています。

最初は,ただ南国ムードを演出したいだけかと思ってたんですが
こんなに深い意味があったとは知りませんでした。
堺大空襲が,いかに凄まじいものだったかを物語っている様です。

因みにこのフェニックス通りは,3年前に阪堺電気軌道と堺市とで
共同出資して,新しい交通システムであるライトレールを誕生させる
計画がありましたが,諸々の事情で立ち消えになってしまいました。
もし実現していたら,この道も更に変わっていたんでしょうね。

阪堺大浜線 以来の軌道復活に少し期待したんですけどねぇ・・・。


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船待神社  大阪府堺市
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祭神 : 天穂日命・菅原道真

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船待神社も菅原道真公と縁の深い神社です。
嘗ての地名だった塩穴に因んで,塩穴天神社とも呼ばれています。
最初は菅原家の祖神である,天穂日命だけを祀っていましたが
道真公が大宰府左遷の際に,道明寺に居る伯母へ別れを告げに行った
帰りに船を待つ時間を利用して,ここへ参拝したと言われています。

その後に道真の子孫がこの史実を取り入れ,今の名の神社になった
と言われています。船を待つ間に訪れた神社で船待神社ですね。

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境内は派手でもなく地味でもなくといった感じで,末社や社務所
または史跡などが正面から見渡せ,広々とした印象を受けます。
最初は裏口の方から参拝したのですが,何処となく神社というよりも
お寺の山門や壁を連想した作りだなぁと思っていました。

帰って調べてみると寛治年中(1087〜94年)に,ここに神社
を移した時に,一緒に神宮寺として安楽院という寺院も移転させた
事が解りました。安楽院は明治の神仏分離で廃寺となっていて
船待神社に山門や壁といった寺の名残があるとういう訳なんです。

堺の町も,道真公と大変関係の深い場所なんだと改めて思いました。


               (所在地 : 堺市堺区西湊町1丁)



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千利休屋敷跡  大阪府堺市
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ビルの谷間にポカッと開いた様な緑色の空間があります。
ここは千利休が生まれた際に,産湯に使用した井戸があります。

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千利休は堺の宿院辺りにあった,豪商魚屋(ととや)の長男として
誕生しています。侘び茶を大成させ,信長・秀吉といった天下人の
茶頭として活躍し,最後は秀吉の怒りに触れここ堺で自決しています。

後の世には,この屋敷跡に酒屋の屋敷が建てられましたが
主人の加賀田太郎兵衛が残された井戸を偲んで,利休縁の茶室を
新たに建てたと言われています。その茶室も由緒があるので
現在は京都に移築され,現存しているそうです。

残された井戸は今も清水が湧いているそうで,その井戸を覆う館は
利休と大変縁のある,大徳寺山門の古材を使用して建てられてます。

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利休がこの井戸の産湯に浸かり,そしてここ堺の地で亡くなり
今も井戸からは滾々と清水が湧き出ている事に
利休の不思議な力を感じる気がするのは考え過ぎでしょうかね?。


      (所在地 : 大阪府堺市堺区宿院町西1-17-1)



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長谷寺・顕本寺  大阪府堺市
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御本尊 : 十一面観音(宿院観音)

長谷寺といえば奈良県桜井市の総本山が有名ですが,ここ堺の
長谷寺は聖武天皇の勅命で,全国各地に同じ名前の 「長谷寺」
を建立して行った中の1つです。こんな言い方は無礼かもですが
要するに支店の様なモンでしょうね(笑)。その中でも堺の長谷寺は
総本山の次に古いお寺として知られています。

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境内は非常に小ぢんまりとした,極普通のお寺ですが
これでも建立当時は6坊の塔頭があり,荘厳な伽藍を構えていた
大寺院だったと伝わっているそうです。本尊の十一面観音様は
楠の霊木で出来た二尺六寸(約80cm)の小像が試作された
そうですが,この像がそのままいらっしゃるそうです。

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御本尊 :  題目宝塔・釈迦多宝二佛・四菩薩・四天王・二明王

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顕本寺は法華宗本門流という宗派のお寺で,大本山には京都の
本能寺などが有名です。1450年に法華堂を建立したのが始まりで
建立当時は 開口神社 の近くに建っていたそうです。
本能寺の変の際に寺が焼失し,本山がここへ逃れて来て暫く顕本寺に
置かれていた事があるそうで,本能寺とは縁の深いお寺になりました。

太平洋戦争の堺大空襲の時に,元々あった場所の寺が全焼して
今の場所に移って再建されたそうです。

境内は立派な庭園があって,いかにも格調高い寺院という感じですが
気軽にアチコチを見て回れる様な雰囲気ではありませんでしたね。
檀家さんや信者さんの為のお寺という所でしょうか?

しかし堺のお寺に限らず,寺院の境内には蘇鉄をよく見かけます。
妙国寺の大蘇鉄も有名ですが,お寺と蘇鉄の関係って
何か特別なものでも有るんでしょうかね?少々気になります。


(所在地)  長谷寺 :  堺市堺区宿院東3丁目
        顕本寺 :  堺市堺区宿院町東4丁1−30 



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宿院頓宮  大阪府堺市
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(祭神 : 住吉大神,大鳥井瀬大神)

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”頓宮” とは,つまり御旅所の事ですね。
御旅所とは神社の祭礼で祭神が巡幸する時などに,仮に神輿を
鎮座して置く場所の事で,神輿宿りとか仮宮と言われています。

ここ宿院頓宮は,住吉大社の御旅所として古くから在って
神の宿という意味の宿居が転じて,地名の宿院になったとされてます。
また明治以降は,鳳にある大鳥大社の御旅所としても神輿の渡御が
行われる様になり,摂津国と和泉国の2つの頓宮として知られてます。

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境内には社殿を始め,元々ここにあった兜神社の石碑や
飯匙堀(いいがいほり)と呼ぶ海幸山幸の神話に登場する
潮干珠を埋めた場所と言われている場所が祀られています。

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頓宮隣りの公園の一部となっている場所には,御覧のような
白兎のモニュメントがあり,住吉大神が鎮座したのが卯月卯日
に因んで,動物彫刻家の岩田千虎氏が制作を手掛けたものだそうです。

普通御旅所という場所は,神様の休憩所というイメージがあって
社殿やその境内は簡素で,小規模な場所が多いのですが
ここ宿院頓宮は,一般的な神社と比べてもヒケを取らない規模で
いかに重要な場所だったかが窺い知れます。嘗てはもっともっと
広い境内を誇っていたそうですが,区画整理などで今の規模まで
縮小されています。区画整理後の道路の分離帯などには
当時,ここが宿院頓宮だった石碑が記念に残されています。

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            (所在地 : 堺区宿院町東2丁1−6)


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与謝野晶子生家跡  大阪府堺市
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歌人・作家のほか思想家としても有名だった与謝野晶子は
大阪府堺市が出身地になります。この場所は,その晶子の
生まれ育った実家があった場所として記念碑があります。

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晶子は父が経営する老舗の和菓子屋(駿河屋)の三女として誕生
しています。(当時の名は本名の鳳し志)そして23歳の時に
同じ歌人であった鉄幹とここ堺で出会い,その後不倫関係に・・・。

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最初に私が訪れた時は,同じ生家跡でも若干場所がズレていて
ビルの間に碑があるだけの簡素なものでしたが,最近リニューアル
された様で,街道沿いに移され立派な記念碑が出来てます。

歌碑周辺の石組みは碑に刻まれている歌に因んで,海の波をイメージ
した高低差をつけて配し,所々の青色タイルを貼って光る水面を
表現しているんだそうです。その石碑に刻まれた歌は・・・

「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」

と書かれてありました。彼女の実家や,鉄幹と出会い2人で
何度も訪れた浜寺公園の様子が目に浮かぶ歌ですね。


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開口神社  大阪府堺市
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(祭神 : 塩土老翁神 ・素盞嗚神 ・生国魂神)

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開口(あぐち)神社は,西暦200年頃の仲哀天皇期に
神功皇后の勅命により創建された神社だそうで,理由は彼女が
三韓征伐の際に,この地に塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)を
祀りなさいとの神の声をここで聞いたんだとか・・・。
因みに塩土老翁神とは住吉三神の別の呼び方なんだそうで
要するに海の神である住吉さんを,祀りなさいという事になります。
(正確にいえば住吉神という名になる前の名称ですね)

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この神社がある場所は太古の昔。竹之内街道という街道の
最西端になり,大阪湾の出入り口に位置する事からその場所を
守る神社として有名だったそうです。名前は当時,この付近が
開口村と呼ばれていた事に由来するそうです。

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またこの場所は神社創建の後で,念仏寺という大寺院が建てられ
神社と寺院が同居する所謂,神仏習合の場所として有名になりました。
建立したのは行基と言われてまして,かの空海や空也といった
大僧侶とも大変,縁のある場所として知られていました。

当時の境内には昔の絵図にもある通り,巨大な宝塔や御堂も
あったそうですが,現在は戦災や区画整理などで当時の面影は
全く残っていません。神社としてだけ生き延びたのでしょうね・・・

境内には住吉三神が仮の姿で出現した際に,ここにあった
石に腰掛けてその後,住吉へ辿り着いたという石があります。
普段はひっそりとした都会のオアシス的な神社ですが
ふとん太鼓祭を始め,季節の節目には大きな祭事が
行われている伝統ある神社として,今も皆に信仰されています。


      (所在地 : 堺市堺区甲斐町東2丁1−129)



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菅原神社  大阪府堺市
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(祭神 : 菅原道真公・天穂日命・野見宿祢)

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堺の天神さんとも呼ばれる菅原神社です。
縁起は997年に天神社を祀る事から始まり,明治5年に
現在の菅原神社になったとされています。

この神社で何といっても目立つのが,入り口にある立派な楼門です。
正式名を随身門(ずいしんもん)と呼び,慶安5年に建立されました。
その後,延宝5年には堺の鉄砲鍛冶で有名な榎並屋勘左衛門の寄進で
仁王門が造営されたと伝えられているそうです。因みに随身とは
平安時代の今で言うSPの様な存在で,貴人を護衛する役人の事を
いいますが,門の左右に居て神を護衛する像も随身像といいます。

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境内には他に ”えべっさん” で知られる戎神社や
少彦名命で有名な薬祖神社などもあります。

さてこの神社。あまりに立派な楼門を潜って境内に入りますと
本殿が何故かすぐに見当たりません。本殿は境内のやや左側にあって
他の戎社や薬祖社の社殿と同じ様な規模ですので,一瞬見落としそうに
なります。普通は看板の神様がデーンと正面中央に構えているのが
通例ですので,その感覚でお参りすると少々迷います(笑)。


        (所在地 : 堺市戎之町東2丁1−38)



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