さらばブルートレイン:夢と思い出をありがとう
平成27年8月23日、上り臨時特急「北斗星」の上野駅到着をもってブルートレインと呼ばれた寝台特急の歴史に終止符が打たれました。
小学2年生の時、学研の学習で読んだ「走れ寝台特急富士」という記事を読んでから寝台特急の車掌業務に憧れ、車掌になることを夢見て国鉄に入社しました。
しかし、現実に配属になったのは大宮操車場での貨車の入換。車掌になるには2年以上の職務経験をもって試験を受けなければならないことにショックを受けました。
それでもいずれはと夢をあきらめることはなかったですが、、意外と胃腸が弱いことを知り、乗務員は無理かな?そんなことで合理化で大宮操車場を追われた際も、駅員として働くことにしました。
合理化の波はその後も容赦なく襲いかかり、夢を実現どころか、退職に追い込まれてしまうことになりました。
小学生で初めてカメラを手にした頃は、地元で寝台列車を撮るのは非常に難しかったので、それほど興味は抱いていなかったかもしれません。初めてブルトレの写真を撮ったのは、小学4年生の時だったか、友人らと東京駅に初めて撮影に行ったときでした。まだその頃は「ブルートレイン」という単語は無かったように思います。
しかし、駅に着いたのが遅い時間だったのか、「富士」くらいしか撮っていなかったような気がします。その記憶も、ネガの紛失と共に記憶が薄らいでいます。
そして、ブルトレが大好きになった最大のきっかけは、初めて大阪に連れていってもらった時でした。時刻表でしか見たことのなかった憧れの列車が続々と発着していました。
その中でも一番インパクトがあったのが、20系「日本海」でした。
当時、「富士」「はやぶさ」や「あけぼの」が20系を使用していたのは知っていたと思いますが、いずれもナハネフ22の印象が強く、このスタイルの20系は初めて見たと思います。
あまりのかっこよさに心を打たれ、これ以降、583系と20系、いわゆる寝台特急の大ファンとなってしまいました。
東京口では
「あさかぜ」「瀬戸」、
「ゆうづる」や
「あけぼの」といった20系を使用した特急列車がまだ残っていましたが、昭和52年から昭和55年くらいにかけて次々と倒れ、ブルトレ時代全盛の14系、24系や25形といった新鋭車両に次々と置き換わりました。
20系が特急列車から撤退したことにより、次第にやブルトレから心が離れていったように思います。
それは、ヘッドマークの非掲出やテールマークのイラスト化も大きな原因でした。おそらく、この辺の感覚は40歳代以下のファンにはちょっと理解できないかもしれません。
昭和59年くらいからブルトレのヘッドマークが復活し、やや最注目の兆しもあったのですが、時既に遅しというか、気持ちは復活蒸気時代へ突入。さらに結婚して子供が生まれると、写真撮影そのものからも遠ざかってしまいました。
利用率の低迷でブルトレの勢いが衰える中、当時唯一の明るい兆しが青函トンネルの開業、そして歴史上初となる北海道への直通列車「北斗星」の誕生でした。平成63年3月13日のことでした。
当時、DD51牽引のブルトレは「明星」や「出雲」くらいしかなく、さらに定期重連ともなれば写欲をそそわれない訳がありません。早速撮影に突撃したものです。
その後も1度だけDD51重連を撮りましたが、C623というモンスターの復活に心を奪われ、また蔑ろになってしまいました。
その後、結婚して子供が生まれると外出の機会が激減し、この間に数々の寝台特急が合理化で消えていきました。
デジカメを導入してからは「北陸」「あけぼの」「北斗星」とマメに撮影を再開したものですが、ここ数年は改正ごとにブルトレが消滅していったのはご承知のとおり。
そして平成27年8月23日、1日に最大4往復の隆盛を極めた「北斗星」がラストランを迎えることになってしまいました。

EF510−515牽引 8008レ 上り最終「北斗星」
最後はいつものアングルはやめて、遠くから見守る気持ちで。
いつもより多くのギャラリに見送られ・・・
彼方へと消えていきました。
殆どが1回限りの乗車であった寝台列車も、「北斗星」だけは別格で4回乗車しています。だからこそ、思い出も多かった。
そして、「北斗星」は「ブルートレイン」という言葉とともに、日本の鉄道史上に名を残して去っていきました。
小学生時代からの夢をありがとう。
そして、数々の思い出をありがとう・・・


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