寝台特急「日本海」(寝台客車編)
寝台特急「日本海」は、昭和43年10月ダイヤ改正において大阪〜青森を結ぶ寝台特急として誕生しました。
それ以前は、同区間を急行「日本海」として運転されていましたが、名称を特急列車へ移行し、急行列車はそのまま「きたぐに」と改称され存続しました。
寝台特急としての運転開始当初より20系寝台客車が使用され、車両は青森運転所所属車で「あけぼの」や「ゆうづる」と共用されていました。

昭和49年8月 大阪駅にて ナハネフ21使用 特急「日本海」
20系客車は昭和50年3月ダイヤ改正まで使用されたようです。
湖西線が開業するまでは米原経由で運転されており、米原から大阪まではEF58やEF65が牽引していました。
初めて「日本海」に遭遇したのがこのとき、小学5年生の夏でした。
それまで「あけぼの」や東京発着ブルトレなどで20系は知っていましたが、このスタイルを見るのが初めてでした。何故か流線型の20系よりもこのスタイルに強く惹かれ、「日本海」の初めての出会いが寝台特急そして「日本海」大好きに染まっていったきっかけでした。惜しむらくは、当時の写真代が非常に高かったため、EF58かEF65がヘッドマークを掲げていたであろう、先頭の機関車を撮っていなかったことでした。
50・3改正で20系客車から14系化され、所属も早岐客車区となりました。
残念ながら、これ以降、しばらくは「日本海」と逢うことはありませんでした。

昭和55年3月 青森駅にて オハネフ24使用 「日本海3号」?
次に出会ったのは、高校生になって初めて渡道した際、乗り継ぎの青森駅でした。
昭和53年10月ダイヤ改正で、「日本海」は2往復体制となります。宮原区と青森区がそれぞれ1往復を持つことになり、青森区は24系24形、宮原区は24系25形を使用していました。
写真は、車種と明るさから青森区の3号ではないかと推測されます。
ブルトレのイラストマーク化は、電車に比べて1年遅れとなりましたが、既にこの写真を撮った時はイラスト化されていたため、文字サインの時代の写真は記録できませんでした。

昭和57年8月8日 富山駅にて オハネフ25使用 「日本海4号」?
宮原区持ちの1・4号は、24系25形客車が使用されていました。この編成は当初からA寝台を連結しない、銀帯編成でした。
この後、57・11ダイヤ改正から2往復とも宮原区持ちとなり、全てが25形化されたようです。

昭和61年9月8日 羽越本線 下浜〜道川間にて 「日本海3号」
昭和59年2月ダイヤ改正から再び1往復が青森運転所持ちとなります。
この時点においては、関西で余剰となった24系25形が青森区へ転属してきており、「ゆうづる」にも使用されていました。
また、需要の低迷によりA寝台車も連結が廃止されており、写真からも判るように、オハネフ25が電源車の次位に連結されています。本来の25形は両向き仕様となっていますので、関西のオハネフ25は両端に車掌室を出していましたが、青森車は分割併合がないため、写真のように車掌室を青森向きに方転していたようです。
最後部はカヤ24(←マヤ24)が連結されています。
本来は関西用に投入された24系用の電源車マヤ24でしたが、荷物需要に応えるために荷物スペースを確保、この際に荷重が増えたためにカヤ24になっています。
昭和55年頃、合理化によって余剰となったカヤ24が大挙して青森区に配置されたため、「ゆうづる」やこの「日本海」での運用が目立つようになりました。

平成24年3月11日 青森駅にて 上り「日本海」
民営化を前後として、渡道の際に青森駅へ寄ったことはあるものの、駅撮りをしなくなったこともあって「日本海」を撮ったことが無く、青函トンネル開業後は青森駅すらスルーしてしまうことに。
引き続き2往復が存続した「日本海」は、西日本、東日本がそれぞれ1往復ずつ担当し、1往復の函館乗り入れやモトとレールの連結など、青函トンネル効果で需要があったようです。
また、閑散期には修学旅行の団体客にも需要があったようで、運行区間と時間距離が不便な割には2往復体制が堅持されました。
平成20年に西日本運用が廃止されて1往復となり、需要の低迷に歯止めが掛からず、平成24年3月のダイヤ改正をもって、その生涯に幕を閉じました。
電車特急の新製による継続運転などのウワサもありましたが、北陸新幹線開業による北陸本線の分断、北海道新幹線開業による旅客流動の変化などを考慮すると、その実現性は皆無であろうと思われ、趣味的発想からだけでは難しいことが、今になって納得でき、仕方のないことだったと諦めもつきます。
物心ついた頃に鉄道に興味を持ち、その興味をより強くしたのがこの寝台特急「日本海」だったように思います。いつでも逢える列車ではなかったことが、余計にそういう存在になっていた。
地味ながらも自分の中では大きな存在だったブルートレイン、それが寝台特急「日本海」だったのだ、と改めて思います。


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