二十二番から日和佐薬王寺まで二十キロ近くある。山を越えて歩いていると白い砂浜に出た。世界が広がったような気がした。おいらはこの風景の中に溶け込みたくなって波打ち際まで入り込む。しばらく佇んで踝を返すと、はげかけたペンキで更衣室と書かれた建物がある。夏場は海水浴場で賑やかなのかもしれない。いまは秋風の中人っ子ひとりいない。
堤防沿いの道を歩いていると、老いた遍路がひとり休憩している。おいらから挨拶すると引き止められる。
展望台まで行ってきたという。指差す方向を見ると砂浜のはずれにある岬の高台のあたりに、緑に隠れるように人工の建造物が見える。いい眺めだったから一度行ってみてはどうかという。
彼は名古屋から来ていて四回目だという。誰かと話したくてたまらないという感じだ。
おいらが仕事を辞めて遍路に来たと個人的なことを話しても、彼はまったく食いついてこない。自分のことや彼のおはこネタを話し続ける。二十分くらいつきあう。
どうして四国八十八だと思います? と訊く。わからないと答えると、八十八というのは後世に固まったもので、もともとは百近くある四国のたくさんのお寺という意味だったという。
その証拠として日本には九十九島や九十九里浜という地名があるだろう、これらは決して島が九十九あるわけでも浜の長さが九十九里あるわけではない。それくらいたくさんあるいは長いという意味なんです。
同様に八十八景や八十八滝とも言うがこれもそれくらいたくさんだという意味で厳密に八十八あるわけではない。語呂がいいからそう言っているだけで、昔は今みたいに一番から八十八番までお寺に番号をふっていたわけではないんです。…
結局、おいらは老人の話に圧倒されてひとり展望台に後戻りすることに。砂浜に戻ってきたときには老人の姿はなかった、当たり前だが。
四国遍路は順回りと逆回りがある。現在進行形でお大師さんも回っているので、逆回りだとどこかで一回は遭遇できるという。順回りだと運が良ければどこかで追い抜かれるか追い越すというわけだ。
トンネルを抜けて坂を下ると小さな漁港があった。集落に埋もれて二階建の丸太造りの休憩所もある。風通しがいいので寝袋は必携だが、泊まるところがなければここで一晩明かせそうだ。二階に上がっていくと先客がいた。
「こんにちは」と挨拶を交わす。
どちらから?と当たり障りのない話から始める。お遍路にどうしてへんろをやっているんですか? みたいな質問は禁句だと言われている。深い事情の中にあって救済を求めている人の心の闇を通りがかりの人がかき乱す無礼は慎まなければならない。最近本が出版されたが、殺人犯の逃亡者が死者の復活を願って回っていることだってありうるのだ。
ところが彼は簡単に彼の動機を語り始めた。
「ある会社に就職したのですが、新人研修で回っているんです」
へえ、とおいらは驚く。
「十万円と納経の費用三万円を渡されて勝手に回ってこいと。私はあまり来たくなかったんですが会社の方針なのでしょうがなく回っているんです。これって乞食みたいな生活ですよね」
たしかに歩き遍路はそんな生活だ。
「これからいいことがあるかもしれないし、くさらずに頑張りましょう」
とおいらはよわよわしい雰囲気を漂わせる彼を励ましたくなる。
「いえ、いまはお遍路を楽しんでいるんです。不思議ですね。心が洗われるようなすがすがしい気分です。ずいぶんちっぽけなことにこだわっていたんだなあと思います。四国の人ってやさしいですね。お接待だと言って食べ物や飲み物をくれます。お店で買ってきたものをそのままくれるんです。自分が食べたかったのでしょうに。お金もくれます。このまま仕事をやめて残りの半生、人工衛星のようにぐるぐる回ってもいいかなあと思っています」
お遍路にはいろんな効用があるらしい。
元気よく出発していった彼を追っておいらもあとからゆっくり遍路道を進む。海岸線を離れてヘヤピンカーブの小道は杉の木立で覆われて薄暗い。昔ながらの巡礼の道だ。とても歩きやすい。めったに車も通らない。
峠にも休憩所があった。年配の男の人が休んでいる。最初見た時、この人、死に場所を探しているのかなとおいらはふっと思った。覇気がないし暗い。
「どちらから?」
それには答えずに、
「退職したのを機に回っているんです。あなたは?」
「三ヶ月前に仕事をやめたので気分転換に」とおいらは正直に答える。
「あなたは若いからいつでも生き返ることが」と言い終えたところで一瞬、男の話は止まる。「やり直しがきくからいい。歩き遍路なんかやっているよりも早く生業を見つけて頑張りなさい。こんなこと続けていたらダメになるよ」
「はい、ありがとうございます。おじさんも元気を出して」
おいらは先を急ぐ。
ふたたび海岸線に出る。アップダウンを繰り返しながら細い道を歩いていくと、波でくり抜かれた大きな岩の洞があった。反対側には日和佐の大浜海岸が見える。薬王寺までもう少しだ。
恋人岬と書かれた休憩所があった。大浜海岸を一望に見渡すことのできるロケーションで、大きな丸屋根と椅子が据え付けられ、そこに何人かが休憩している。そのうちのひとりのお遍路がおいらを見つけて手を振り、招き寄せる。
見たことのある顔だ。先ほど砂浜で会った、話したがりの老遍路だ。
「展望台まで行ってきましたよ、いい眺めでした」
「そうだろう、そうだろう」老遍路はそういうと、「君も仲間入りしたら」と椅子をすすめる。
数人のお遍路がテーブルを囲んで談笑しているらしい。よく見ると車遍路にクラクションを鳴らされてびっくりした二人連れの女性遍路、新人研修のお遍路に、初めてお会いするお遍路が一人混じっている。
話したがりの老遍路を中心に話は進行する。老遍路は八十過ぎの老人らしい。
老人はこれまでの三回のお遍路で習得した、宇宙の話、自殺の話、空襲を通り抜けて生き残った話、空(くう)はプラスマイナス0だ、みたいな話をする。自分より若いお遍路たちに伝授しようという使命感があるのかもしれない。
おいらにはちょっと退屈な感じがしたが、ほとんどのお遍路はじっと老人の話を聞いている。新人研修のお遍路は貴重なお話ありがとうございますと、一つのテーマが終わる度に相槌を打つようにお礼を述べている。おいらはそのやり取りを見ていて、ここに集う遍路たちが何でも受け入れるという受容の気持ちを大切にしていることに気づく。お遍路に出るからには人それぞれ何らかの行き詰ったことがあってのことなんだろうけれども、まずはすべてを投げ出してすべてを受け入れる、そういう雰囲気だ。
「私達は一番から八十八番まで順番通りに回りたいのですが、近道しようと思うと四十四番大宝寺と四十五番岩屋寺の参拝順が逆になってしまうんですが、これはよくないんですか?」と二人連れの女性が顔を見合せながら訊く。
「いや、お寺の番号は後世の人が勝手につけたものだから気にしなくていいんだよ。昔の人は九十近いお寺の中から好きな数だけ選んで四国参りしていたのだから」と老遍路。
「昨日のことなんですが、遍路道のかたわらで仕事をやっていた農夫から、いまどきのんびりと歩き遍路が出来るなんていいご身分ですなと言われましたよ。これで随分落ち込んでしまいました。四十五年仕事一筋で頑張ってきて、退職を迎えて心の中が空っぽなのに気づいて、すがる思いで四国にやってきたのに…」
声の主の方を振り向くと、死に場所を探しているのかと心配した退職遍路が話の輪の中に加わっている。
「いや、それは私も何度も言われましたよ。私らは朝から晩まで汗水流して働いているのに、あんたらは優雅ですな、みたいな心情です。自分もお遍路したいのにできないという不満を言っているだけで悪気はないのですよ。気にしないことです。これからあなたの分までお参りさせていただきますよ、くらいの返答で喜んでくれますよ」と老遍路はやさしくアドバイスする。
「若い遍路の中には四国では無銭旅行で遍路ができるように思いこんでいる連中も見かけますが」突然きつい口調で話しだす遍路がいるので振り向くが、おいらが初めて会うお遍路だった。六十過ぎくらいだろうか、白衣、輪袈裟も年季が入ってヨレヨレだし菅笠もあちこちほころびがある。「こういう遍路は困ったもんです。稼いでから出直せと言いたい」
おいらを含めて若い遍路はいっぺんで委縮した面持ちだ。
「いや、若いのに歩き遍路を思い立っただけでも素晴らしいとわしは思うんだけど…」話したがりの老遍路も戸惑い気味だ。
「いやいや、札所でろくろくお経もあげずに、タダで泊まれる通夜堂のありかだけに関心がある。お接待を当たり前と思って自分から求める輩もいる。甘えるなと言いたい」とあいかわらず鼻息荒く、手厳しい言葉を並べる。
「私はどんなお接待も断ってはいけないと思って受け取りますが、要求したことはありませんよ」新人研修のお遍路が小さな声で答える。
「私はお接待していただくと、こんな私が頂いていいのですかという気持ちになり、その優しさを次に会った方に差し上げようと思って歩いています」「そうそう、私も」二人連れのお遍路が答える。
おいら自身お接待してもらうと、何を頂いてもおいらの存在を認めてくれているんだという喜びを感じるし、いままでこんなに優しくしてもらったことがあったのかなあとうれしい気持ちになる。
どうしてこの遍路はこんなきついことを言うのだろう?
自分と異質なものは攻撃や非難の対象となりやすいのかなと思う。いろんな遍路がいて構わないし、特別迷惑になっていなければそういう遍路がいてもいいのでは…。四国はどんなお遍路も受け入れてくれる懐の深さがあるように思う。
いや、それともおいらを含めてここに集う遍路たちはこの自信に満ちあふれた遍路に試されているのか?
そのとき季節外れの薮蚊が飛んできて自信過剰の遍路の左腕にとまった。それに気付いた彼は手で追い払う。薮蚊は新人研修遍路の腕にとまる。彼はそれを手で振り払う。次においらの腕にとまり、死に場所を求めているお遍路の腕にとまり、二人連れの女性に次々ととまり、最後に話したがりの老遍路の腕にとまった。すると彼は口の中で何かをぼそぼそと唱えながらパチンと叩き潰した。後には血のかたまりが残った。誰の血なのだろう?
「殺生はいけないことですが…」と言いながら老遍路は般若心経を唱え続けた。
このあと解散し、それぞれがそれぞれのペースで歩き遍路を再開したわけであるが、おいらは前を歩くお遍路の白衣の背中に書かれた同行二人の文字を見ながら、順打ちだとどこかでお大師さんに追いつくか追い抜かれるかもしれないというのを思い出す。さっきお大師さんとすれ違ったのかな、とおいらは思った。
もしお遍路に姿を変えて紛れ込んでいたのなら、どのお遍路がそうだったのか?
話したがりの老遍路は不殺生の戒めを破ったのでおそらく違うだろう。般若心経を唱えながらでも殺生は殺生だ。薮蚊がお遍路の腕を飛び回った時は、何だか変な空気が支配していた。すべてのお遍路の視線が薮蚊に集まっていた。その結果追い払うだけだった。そのきっかけとなったのが自信過剰のお遍路の、手で払う行為だった。言葉のきつさとは裏腹に思わず優しさが表に出たのだ。彼がお大師さんだったのか。姿を変えておいらたちお遍路を試していたのか?
いや、それとも死に場所を探している退職遍路か? 弱者のふりをしておいららの反応を見ていた? いや、そういう風に考えると、新人研修の遍路の話も作り話かもしれないし、二人連れの女性遍路も一番怪しまれない姿だ。
おいらはそんなことを考えながら、ふとある考えが浮かんで青ざめた。ひょっとしてお大師さんを叩き潰してしまった?

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