サンスクリット語で書かれたものを、そのまま発音に従って漢字にしているのかと思っていた(仏蘭西や亜米利加のように)ら、漢訳したもののよう。サンスクリット地方で唱えても通じないということだ。
日本で流通しているのは玄奘訳の物のようだ。
だから日本人が読んでも、なんとなく意味が伝わってくる部分もある。もちろん意味不明な部分がほとんどであるが。
ちなみに日本語にすると、
観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。
受・想・行・識もまた是の如し。
舎利子よ、是の諸法は空なる相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。
是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法も無し。
眼界もなく、乃至、意識界も無し。
無明も無く、また、無明の尽くることも無し。
乃至、老も死も無く、また、老死の尽くることも無し。
苦も集も滅も道も無く、智も無く、また得も無し、得る所無きを以ての故に。
菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。
罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顛倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。
三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり、是れ大明咒なり、是れ無上咒なり、是れ無等等咒なり。
能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。
故に般若波羅蜜多の咒を説く。
即ち咒に説いて曰く、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
般若心経
『般若心経』は「空」の思想を説いた経典の様です。あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてあると。
しかしその真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。
真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるのに。
『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあり、こだわりから離れよ、こだわるべきものなど何もない、ということが言いたいようです。
確かに、周りを見渡しても人はこだわりの塊のように見えます。

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