都会では、人が持っているものが欲しくても手に入らなかったために事件が起こるようである。
川崎刺傷事件もこれだったようである。私立のカリタス小学校に恨みがあったようである。
死にたかったら1人で死ね、と言う声が上がり、批評家が秋葉原の無差別殺傷事件を連想し、自分を必要としてくれない世の中を悲観している人を刺激するので、そういうことを言うべきではない、と見当はずれの主張を展開していたが。
川崎殺傷事件は無差別であったが、学校との関係が明らかになる。
両親が離婚した犯人は、おじさん夫婦に育てられ、いとこたちが私立のその学校へ通い、自分は公立学校へ通ったと言う境遇だったらしい。
小学生の子供が友達が持っているので自分も同じおもちゃを買ってほしいと言う訴えはよく耳にする。
これはこれで小学生としては当たり前のことである。
おじさん夫婦が自分の子供たちを自分たちの教育方針で私立の学校へ通わせたと言うのも当然のことである。
親に捨てられた犯人が、おじさん夫婦に育てられたと言うこともよくできた話である。おじさん夫婦も素晴らしい。
果たしておじさん夫婦は犯人も私立の小学校へ通わせなければいけなかったのか?
結果的に犯人に生い立ちの欲求不満を募らせて学校への攻撃性を育ませてしまうことになる。その結果、成人してからも職や家族も持てなかったのか?
果たしてこの事件が起こってしまったのは、何が悪かったのか?
攻撃の対象は、離婚して自分を捨てた両親でもなく、おじさん夫婦でもなく、いとこでもなかった。
私立の小学校が犯人にとって、憎悪の対象となることに理不尽さを覚える。
都会の中で、華やかさのそばでポツンとひとりぼっちだったということか。

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