四国札所を廻っていると、そのお寺を開基した人として行基の名前がよく出てくる。
四国88霊場全体が一体、どういう状況なのか検索してみたら、その結果に驚いた。
空海が開基したお寺が、
4、5、6、7、8、9、10、11、13、14、16、20、21、22、24、25、26、30、33、34、36、38、39、40、41、42、45、56、57、62、63、66、67、70、79、81、82、85番
の38寺。
行基が開基したお寺が、
1、2、3、15、18、19、23、27、28、29、31、32、35、37、46、48、50、51、53、54、55、59、65、71、72、73、74、75、78、80、87、88番
の32寺である。
行基は空海と肩を並べるくらいお寺を創った人である。
行基とはどういう人物なのだろうか?
私のブログでは、一度だけ行基の名が出てきている。
日本最古の地図を作った人として、である。
(地図の歴史から見る四国遍路
http://photo.ap.teacup.com/morningstar/21.html)
彼の作った地図はこちら。
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/shougaisho.htm
空海が774年-835年に対して、行基が668年-749年なので、空海より1ないし2世代前の人物のよう。
調べてみると、行基はかなりいい人だ。
渡唐こそしていないが、渡唐した師匠、道昭につく。
702年大宝律令施行によって天皇支配が確立し始めたころ、貧民救済・治水・架橋、親のいない子どもの収容施設などの社会事業をやり、仏教を広めた。関西地区にため池を15個造っている。
満濃池を造った空海といい、昔の僧侶は土木技術にも長けていたということか。
717年朝廷より布教を一度、禁止されている。民衆を煽動する人物であり、寺外の活動が僧尼令に違反するとされた。庶民の間で社会的信望が高いのを、時の政権が恐れたためとも言われている。
行基の時代はまだ仏教が国の宗教ではなく、彼はNPOのような活動をしていたようだ。
この後弾圧を解かれて、大僧正に上り詰め、東大寺の大仏造営に関わる。
空海と並ぶ、いやそれ以上に素晴らしい人だったようだ。
行基の開基が事実だとすれば、空海が誕生した時、四国にはすでに32寺あったということになる。
もうひとつ気づいたのは、時の政権が仏教を国の宗教と定める前に庶民の間ではすでに仏教は広まっていたということだ。

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