安芸市の室戸より、55号国道沿いにある洞窟。風が吹き抜けて、涼しかったです。
夏は是非お立ち寄りください。公民館で長靴を無料で貸してくれます。
妻はスパイだった2.
1週間ほど経った昼下がり、タイヤをスタッドレスに交換している時に郵便配達員がやってきた。汚れた手でお目当ての封書の封を切ると、採用通知だった。
弾むようにジャッキアップして、踊るようにスパナを回す。鼻歌も出てきた。中島みゆきの地上の星だ。泥溜まりから新しい世界に踏み込むような気分の高揚を覚えた。
午前中外出していた妻が帰ってきたので、来たよ、来た、来た、と言って封書を差し出す。
目を通した妻は「おめでとう」と言って、「もう一つおめでたいことがあるのだけど」と続けた。「赤ちゃんができたみたい」
「本当? よかった、本当によかった!」
ハグしようとするが、妻は黒山の汚れた手を避けようとする。
妊娠2ヶ月だという。来月には引越しをして、向こうで病院探しをしなければならない。夕食はお祝いを兼ねて外食にする。近所のイタリアンレストランだ。
「どんな仕事をするの?」
「非破壊検査のラジオアイソトープ管理や原子炉プラント周辺の生活環境や自然環境の調査と分析で、排水や地下水、海などの放射能測定と監視だと言っていた」
「空間線量は?」
妻は数年前に放射線取扱主任者試験を目指していただけあって、切り込んでくる。
「それも業務に含まれるよ」
「よかったね、資格がそのまま生かされるね。もう一社面接受けてなかった?」
「ああ、企業名非公開の機関ね。なんか危うさを感じて断ろうかと思っている」
「でも、給与はそっちの方がよかったんでしょう」
「そうだけど、条件がいいということは何かカラクリがあるということだから、たとえば命が危険にさらされるとか、法令違反だとか。赤ちゃんができたことだし、地道にやっていこうと思っているんだ」
「そ、そう、残念ね」
妻は心の底から納得しているという風ではなさそうな雰囲気だ。
薄給の割に多忙で、黒山は仕事を家に持ち帰る日々が続く。妻のお腹も大きくなってきたのが外目でわかるようになった。
今日は事業所内で資格取得を目指している技師向けの講義をやった。
フクシマ原発事故で周辺住民にヨウ素が配られましたが、これはどうしてですか、わかりますか?
一番若い独身の技師の若本が立ちあがる。髪の毛を浮かせて立てたり、金色のピアスをして、地味なはずの青い制服までお洒落に着こなしている。
「内部被曝を減らすためです」
「そうです。では、どうしてヨウ素を摂取すると内部被曝が減るのですか?」
「事故でヨウ素の放射性同位元素(ヨウ素-131)が多量に放出されましたが、それらが体内に入ると甲状腺に集積して持続的に放射能を浴びることになり、将来甲状腺がんを発症しやすくなります。これを防ぐために、前もってヨウ素を摂取していると甲状腺はヨウ素が満杯状態なので、新たにヨウ素-131が体内に入ってきても、不要なヨウ素ということで速やかに体外に排泄されるからです」
「まったくその通りです。若本君よく勉強していますね。ところがフクシマの事故ではヨウ素は配られたのに、摂取指令が出されず棚にしまわれた状態でした」
「遅ればせながら摂取してもよかったのではないですか?」 若本が尋ねる。
「いや、事故直後でないと意味が薄れます。ヨウ素-131の半減期は8日と短いのですが、生物学的半減期が138日と長いのです。体の中のヨウ素-131が新陳代謝で排泄されて半分になるのに138日かかるということです。その間ずっと被曝することになり、甲状腺がん発生のリスクが高くなります。一番危険な出来立てのヨウ素-131を取りこまないことが肝要です」と黒山は答える。しかし5年経った現在のフクシマの環境の問題点はヨウ素ではない。黒山は続ける。
「事故後数年経ちましたが、半減期の短いヨウ素-131はかなり減衰して限りなく0に近くなる一方、半減期の長いストロンチウムやセシウムが放射能汚染物質として登場します。理由はストロンチウム-90とセシウム-137の半減期が30年近いためです。
空間線量、すなわち空気中の放射線線量は数年経ったことでかなり減ってきています。それでは空間線量が事故前の数値に減ったから安全なのでしょうか?」と質問すると、
「いや、ホットスポットの問題があります」と中年の技師の中林が答える。制服には油の染みの跡がたくさん残っている。洗っても落ちないらしく、清潔ならいいと服装に無頓着な世代である。
「そうです、里山とか公園の吹き溜まりや湿地にストロンチウム-90やセシウム-137の集積した場所が出現します。この2つの元素の放射能の強さは数年前とほぼ同じです。目立って減衰していないのです。
さきほど甲状腺がんの話が出ましたが、被曝線量とがんの問題についてお話します。日本人の死因のトップが悪性新生物で30%です。以下心疾患、脳血管疾患となっています。放射線を浴びるとがんになる人が増えるということが容易に想像できますが、それではどの程度増えるのでしょうか。
国際放射線防護委員会というところの報告によると、1シーベルトの放射線を一気に浴びると将来がんで亡くなる人が5%増えるとされています。放射線作業従事者は5年間で浴びる放射線の限度値が100ミリシーベルトですので、この値で比例計算すると0.5%の人ががんで死亡することになります。日本人であればもともと100人中30人ががんで亡くなっているので0.5人増えて、30.5人になるということになります。
次に食品の問題に移ります。
食品中の放射性物質の基準値ですが、これはフクシマの事故後に上限値が設定されました。たとえばセシウムに汚染された野菜類であれば 、野菜1kg当たり500ベクレルが上限になっていて、これ以上のものは市場に出回らないことになっています。さあ、これで食品の安全は確保されたと安心していいのでしょうか?」と黒山が質問すると、一番年配の技師の老田が発言する。青い制服も灰をかぶったようにくすんでいる。
「すべての野菜が測定されているのでしょうか?」
「そうです、いいところを指摘してくれました。汚染されていると指定された地域の食品は測定されていますが、それ以外の場所では未測定の食品が出回っています。該当地域以外にもホットスポットがあちこちに残っていて、特にきのこ類は高濃度に汚染されたものが見つかっています。
さらにもう一点問題点を挙げるとするなら、この基準値の安全性が保証されたものでない点です。我々は未経験の事態に遭遇しているので、この数値はあくまで便宜上のものに過ぎないのです。30年後、50年後に否応なく基準値の良し悪しの結果が示されることになります。
さて、地上に舞い降りた放射性物質は、雨風によって移動し、最終的に海に流れ込むわけですが、それでは海水中の放射線量が低ければ果たして安全でしょうか?」という黒山の質問に、老田がふたたび立ち上がって発言する。
「水銀やカドミウムの公害でも問題になりましたが、生態系の問題があります。汚染物質を食べたプランクトンを中生物が食べそれを大きな魚が食べて、濃縮された形で人の口に巡ってくるという問題もあるように思います」
「そうです、食物の連鎖ですね。近海で獲れたコウナゴから1キロ当たり510ベクレルという基準値を超えた放射性セシウムが検出されたという報道がありましたね。
大地に降りそそいだストロンチウム-90は草に取り込まれ、それを乳牛が食み、その乳が人に巡ってきます。あるいは川に流れ込んだり、湖に降りそそいだ場合はそれが飲料水となって人の体内に入ってきます。半世紀前の公害の問題とオーバーラップしますね。宇井純さんや田尻宗昭さんらが奮闘して現在の自然環境があるわけですが、ふたたび日本の自然環境は危機に見舞われています」

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