恩山寺にて。
社会貢献あるいは社会参加といってもそんなに大げさなことではなくて人は誰かの為に生きていると言う意味である。おそらく仏教もそういう思想の上に成り立っていると思うし、私自身は大学生の時にトルストイの文学を読んだときにこの考えを知った。当時は、そんな強いインパクトは持たなかったように思う。
仕事をすると言うのは自分が生きるため、生活の糧を得るためと言う考え方だった。しかしマクロで見れば社会全体の機能の一部をシェアしている、分担しているということである。それぞれの社会の中での持ち場は異なるが、全体として機能するということである。
なんでこんなことを言おうとしているのかというと、仕事をなくしてしまったりあるいは退職したりして社会との接点を失うことで、自分の存在意義を失うケースが多々あることに気づいたからである。
退職後に小学児童の登校安全の緑のおばあさんやおじさんをやったり、町内会の役員をやったり、地区の祭りの役員をやったりすることなどは社会との接点を持つということで理にかなっている。
若い時は社会のなかのどの分野をシェアするかというアイデンティティーの戦いであったように思う。
老人の場合は、もし役員争奪戦をやるとすれば、生きがいを取り合う争奪戦かな。生きがいがあれば長生きできるかも。
老後は田舎でのんびりと畑を耕したいみたいな発想もよく聞くが、多分、社会参加あるいは社会貢献という部分で物足りなくなるように思う。その収穫物をきっと誰かにあげたくなるようになるはずだ。
人は誰かの為に生きているというトルストイの言葉が身に染みる今日このごろである。

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